ロンドンプレインツリー

この写真の、テムズ川沿いに並ぶ木々は、ロンドンプレインツリー(London Plane Tree、日本語名はモミジバスズカケノキ、ラテン語学名Platanus x acerifoliaまたは、Platanus x hispanica)。ロンドンプレインツリーは、ラテン語学名の属名「Platanus」からもわかるよう、プラタナスと称される木の一種で、ロンドン内の街路樹として一番良く目にする木です。写真も、プラタナスの並木道・・・というわけです。ちょいとロマンをそそる言葉ですね、プラタナスの並木道というのは。

ロンドンプレインは、東と西が遭遇したことによるあいの子ちゃんのプラタナス。地中海東部が原産のオリエンタル・プレイン(スズカケノキ、学名Platanus orientalis)と、北米産のアメリカン・シカモー(アメリカスズカケノキ、学名Platanus occidentalis)が、ヨーロッパのどこかで合体し生まれた種です。其々の学名の後ろの部分、「orientalis」と「occidentalis」は、「東」と「西」を意味し、要は、「東のプラタナス」と「西のプラタナス」がロンドンプレインツリーの両親。

アメリカ原産の「西のプラタナス」を17世紀前半にイギリスへ初めて導入したのは、著名庭師親子であったジョン・トラデスカント・ヤンガー(息子の方)です。お父さんのジョン・トラデスカント・エルダーは、ハットフィールド・ハウスの庭師として名が知れた人物。ジョン・トラデスカント・ヤンガーは、プロの庭師としては初めて北米の新植民地(ヴァージニア植民地)へ足を踏み入れた人であり、そこから、アメリカスズカケノキをヨーロッパに持って帰ったわけです。

トラデスカントによる、北米種導入時には、すでにイギリス内に「東のプラタナス」は存在しており、1700年までには、この2種のあいの子であるロンドンプレインツリーが誕生しています。初の混合種が、いったい、どこで生まれたのかは、いまだ定かではないようで、ロンドンプレインの学名のひとつ、「Platanus x hispanica スペインのプラタナス」が示すように、スペインで誕生したという説があるかと思うと、イギリスで生まれたと思っている人も多いようです。ロンドンプレインのもうひとつの学名「Platanus x acerifolia モミジの葉をしたプラタナス」が、日本でモミジバスズカケノキと称される理由でしょう。ちなみに、学名の真ん中にある「x」は、これが交配種であることを示します。(ラテン語による植物の学名については、過去の記事をご参照ください。こちら。)

と、分類学の話で頭がごちゃごちゃになったところで、生理整頓してみましょう。

上記3種の木々は全て、属名はプラタナス。

スズカケノキ 英語名:Oriental Plane 学名: Platanus orientalis(東のプラタナス)
*地中海東部原産。葉はやつでの様に、深い切込みの入った手のひらのような形。

アメリカスズカケノキ 英語名:American Sycamore、Buttonwood  学名:Platanus occidentalis(西のプラタナス)
*北米原産。葉の切り込みは、スズカケノキより浅い。

モミジバスズカケノキ 英語名:London Plane  学名:Platanus x hispanica(スペインのプラタナス) Platanus x acerifolia(もみじの葉のプラタナス)
*ヨーロッパで交配された、スズカケノキとアメリカスズカケノキのあいの子。葉の切り込みの深さは、上の2種の中間。 

先月訪れたオスタリー・パークには、1755年に植えられたという「東のプラタナス」がありました。オスタリー・パーク内でも、一番古い木のひとつだそうで、トルコかイランから導入されたとありました。「もう少し長生きしてもらうために、枝にぶらさがったり、座ったりしないでね。」と立て札に書かれていましたが、先日の嵐で被害にあっていなければいいですが。見事な木でしたから。

東のプラタナスの葉は、ほら、ちょっとヤツデ風でしょう。ポンポリンの様な実がなっています。プラタナスの実が鈴の様だとして、日本では「スズカケ」と呼ばれているわけです。ポンポリンにはなぜか、沢山のてんとう虫がとまっていました。

上述したように、ロンドンプレインは、1700年までには、すでに誕生しており、18世紀に植えられたものも、ロンドン内、何本か残っています。ロンドン最古の公園とされるフィンズベリーサーカスのロンドンプレインの何本かは、200歳以上という話ですし。

また、建物に囲まれたこの木は、1797年に、ワーズワースが詩の中にも歌っているものです。


ただし、ロンドンプレインツリーが、大量に植えられるようになるのは、ヴィクトリア朝になってからの事で、現在多く目にするプレインツリーたちのほとんどが、この時期に植えられたものです。その理由は・・・
霧の町ロンドンの「霧」は、産業革命の落とし子、「スモッグ」であったわけですが、ロンドンプレインツリーは、大気が汚染された町中で、煤にも負けず、スモッグにも負けない重宝な木。木の幹を覆う皮は、通気穴が、煤や汚れで覆われてしまった場合、その部分が剥がれ落ちるという性質を持っています。よって、汚れた部分の皮は地に落ち、新しい皮が露出されるため、幹が酸欠状態に陥ることなく、呼吸をし続けることが出来ます。(上は、そのパッチワークの様な幹のクローズアップ。)また、初春の葉は、細かい毛で覆われており、この毛は、若い葉を太陽から守るとともに、煤をキャッチ。夏になると、毛は、捕まえた煤と共に葉から落ちます。大人の葉はつるつるで、そこについた汚れは雨でも簡単に洗い落とされる。なんでも、ロンドンプレインは周辺の大気の汚れの85%をも浄化するのだそうです。


こうした大気汚染とのバトルのために、大量にこの木を利用した第一番目の大都市がロンドンであったため、「ロンドン・プレイン」という俗名がなじみのものとなったのです。その後、世界のいくつかの大都市で、やはりロンドンプレインツリーは街路樹として使用されるようになり、ニューヨーク辺りでも良く見る街路樹のようです。北米へロンドンプレインが移植されるというのは、あいの子ちゃんが、片親の故郷を訪れ、そこへ、根を下ろし住み着いてしまう、といった感じですね。

マイナス点を挙げると、ロンドンプレインの葉は、非常にしっかりしているため、一説によると、完全に腐敗するのに3年と、長い時間がかかり、冬の迫りつつあるロンドン内、この落葉の処理がなかなか大変なのだそうです。プラタナスの葉に覆われた雨上がりの道など、つるっとする事もよくありますし。

テムズ沿岸のロンドンプレインツリーは、育つに任せて巨木になっていますが、かなり強烈に刈り込むこともできるようで、盆栽風に小さくしてあるものも見られます。ちなみに、比較的最近植えられた上記の写真のものは、1本につき2万5千ポンドという高価なもの。

また、シャードを背景にした、巨大サボテンの様に刈り込まれたものも見かけました。

春は新緑で気分を軽くし、夏は憩える木陰をくれ、秋はロマンの並木道となり、冬は灰色の空に細かい枝で網をかけ。そして、常にパッチワークの幹で目を楽しませてくれ。ロンドンプレインたちは、数々の古い建物と共に、ロンドンの風景の大切な一部分です。

ロンドンプレインツリーは、長いものでは500年近く生きると言います。現在巷に立つ木達は、我々が土と化した後も、長い間、テムズを見つめ、また、ロンドンの雑踏を見つめ、流れ行く時間と変わり行く社会を見下ろしている事でしょう。

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