地獄とは他人である

「地獄とは他人である・・・(英語:Hell is other people.)」これは、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Satre 1905~1980年)による戯曲、「出口なし」(英語訳:No Exit)の最後の方で、登場人物の一人が言うセリフです。フランス語原題は、Huis Closだそうで、隔離された部屋での秘密の会話を意味するそうです。この国に来てから、他人がひどいことをする、他人は本当に迷惑だ・・・という意味で、「Hell is other people.」などと引用されるのを何度か聞いた覚えがあるのですが、これは引用する状況を間違った使い方であるようです。

私は、日本での高校時代に、ちょいと気取って、背伸びしたかったのもあって、サルトルやらカミュやらの日本語訳をいくつか読んで、「出口なし」も読んだはずなのですが、どのくらい理解していたのかは、かなり怪しいところがあります。あるきっかけで、「地獄とは他人である」の引用を思い出し、ついでに、1960年に放映された、この作品のBBCによるドラマ化を見て、記憶を呼び起こしました。このドラマは、「In Camera」(室内で)というタイトルで、劇作家であり俳優でもあったハロルド・ピンターが出演していました。

「出口なし」の、ざっとしたあらすじは、登場人物の、女性2人と男性1人の3人は、死後、地獄へと送られる。この地獄というのは、悪魔が徘徊し、鞭打たれたり、火の中で焼かれたりする地獄ではなく、鍵のかかった部屋で、3つのソファーが備え付けてあるだけ。やがて、徐々に、それぞれの過去の話を物語、各々は、自分の過去と自分という人間を、他の2人の判断にゆだねることとなります。

最初のうち、3人は、死後は、肉体的苦痛を与えられるいわゆる普通の人間の想像する地獄に送られるものと思っていたのが、やがて、この小部屋で3人で永遠に時を過ごす、それが地獄だと気づくに至る・・・。「地獄とは他人である」というのは、人間は、自分の価値、自分の存在、自分の人生の在り方を、常に他人の目によって判断するものであるから、その他人の批判的なまなざしや、他人によって測られているという感覚から、永久に逃れられないことを地獄と称したもの。ですから、この国でよく引用される場合のように、「他人は迷惑だし、ひどいことをする」から、「地獄とは他人である」という意味ではないのです。私が、初めて「出口なし」を読んだときは、他人に測られる事の精神的苦痛よりも、小さな部屋から、永久に出られない・・・という事の方が窒息しそうな恐怖感を感じましたが。

ずっと鍵がかかっていた部屋、他の二人から逃れたくなった男性は、ドアをがんがん叩いて出ようとすると、いきなりしまっていたはずのドアがあくシーンがありました。が、開いたら開いたで、がらんと静かな外の廊下へ出る勇気が出ず、他の二人も、外へ出ることを拒み、再び、ドアを閉めて、3人は、部屋に留まる事を決めるのです。人間は、社会的動物であるから、全く何もない空間で一人になったら、それはそれで恐ろしく、気が狂うから、という事でしょうか。

「出口なし」最終シーン、この中で永遠に時を過ごせるか?

最近、ソーシャルメディアのやりすぎで、精神的に異常をきたしてしまっているティーンエイジャーが、この国では急増しているようです。日本でも、問題になっているのかもしれませんが、イギリスは、放課後の戸外活動などをする子供たちが、日本などに比べ、ずっと少ない気がしますので、なおさら、寝ても覚めても、スマホでのソーシャルメディアに走るのでしょう。結果、特に、他人の目で測られる、自分のイメージや容姿を気にして悩む女の子は、多いのだそうで。また、楽しいことを沢山しているように見える他人の生活に比べ、自分の生活が、なんともつまらないものに見え、見栄をはるために、嘘でも、すばらしい日々を送っているように、ソーシャルネットワーク上で、見せかける子もいるとか。

青春時代は確かに、自己意識が確立していきながら、自信がまだあやふやで、他人は自分をどう思っているのかと、自意識過剰状態になりやすいものですが、最近は、スマホの普及で、24時間、仲間の判断、仲間の目から逃れられない、まさに、出口なし。そんなに精神的に苦しい状態に追い込まれるなら、スマホから離れる、ソーシャルメディアをやめたらどうかとも思うのですが、それはそれで、「出口なし」の登場人物たちが、誰もいない廊下に出ていけなかったように、村八や、他人との交流が皆無になる事の恐ろしさから、できないのでしょう。ですから、自殺してしまう子などもでてくる始末。なんでも、大人ですら、平均7分だか8分おきに、スマホを取り上げ、メッセージを確認するとか・・・。

思い切って誰もいない廊下に踏み出せば、その先には、広々とした野原があって、自分と似たように、24時間の個室での他人からの監視生活を捨てた人たちとめぐりあい、自分の頭の中のみで繰り広げられるバーチュアル・リアリティーではない、現実での生活を楽しめるかもしれないのに。

コメント

  1. 視野を広く持つ…というのは簡単なようでいて難しいものですね。
    "out of sight,out of mind" という言葉が昔から頭にあって、消えないように消えないようにと交流を続けていた時期もありますが、今思えば、無理していたなと。
    むしろ私の視野から外れていた外部の世界は、私が目にとめない限り、眼中には、そして心中にもありやしない…手前勝手な話なのでここで切りますね。
    亡くなられる方には亡くなられる方なりの理由があるとはもちろん察しておりますが「なんだか惜しいな、やるせないな」という個人の感想も無きにしも非ずです。ネットの付き合いも、もちろん楽しい。ただそれが自分を縛り苦しめる枷となるなら、縋りつく必要はないと思っています…。
    自身の置かれている場所が、もしかしたら青い鳥の居場所なのかもしれないし、そうでないとしたら留まらずに外へ飛び出してみてほしい。
    Miniさんのおっしゃるように、広々としたどこまでも続く野原があって、新しい出会いがあるかもしれない…。私のような若造が申し上げることではないですが、結局人はさみしさを抱えて生きていくのだから、この感情を受け止め、分かち合える人と巡り会いたいものです。

    Miniさんの文章、とても考えさせられるお話でした。
    当方、支離滅裂な上に自分語りをしてしまい申し訳ないです。また遊びに来ますね。

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    1. こんにちは。コメントをありがとうございます。

      場所に縛られずに、情報と冷静な意見の交換を行い、あわよくば、それによって視野と人脈を広げるという理想で始まったインターネット。実際に、そのおかげで生活が向上した人も沢山いるでしょうが、ネット上、スマホ上でのグループに入って、逆に、視線が極端に内向きとなり、24時間、その中での自分の評価に一喜一憂して日々を過ごすというのも、悲しいながら、よくある話です。「出口なし」のように、窓のない部屋に閉じこもっていると、外に視線を向けたり、別な、もっと大切な事に焦点を移す事も忘れますし。また、ソーシャルネットワークでは、面と向かっての交流よりも、個々人に必要な各人のスペースというものも、測りにくいですね。他人のスペースに食い込みすぎて嫌がられたり、逆に自分のスペースに入り込まれすぎ辟易したりと。

      自分を持ちながら、他人とも交流し、意見も受け入れながら、流されず、聞く耳は持ちながら、介入しすぎず・・・何事もバランスなのでしょうが、このバランスを維持するのが結構大変。グループや相手も、同じようなバランスを取ってくれるようでないと、更に、大変。まあ、この場所は、私には居心地悪い、この人とは合わない、と思ったら、たしかに、我慢して、そこにいる必要はないし、一方、自分からの努力で、関係がいい方向に持って行けそうなら、頑張って少し留まってみるというチョイスもありですね。

      感情を分かち合える人、野原にいるかもしれないし、案外、身近にいたりして。それこそ、青い鳥で。

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